石田徹也~悲しみを感じさせながらもどこかコミカルな作品

石田

石田徹也ってどんな人だったの?

石田徹也は1973(昭和48)年、静岡県焼津市出身。

石田

子供の頃から、第五福竜丸など社会問題に関心があり、小学5年生の時には、「人権マンガ展」で最優秀賞を受賞しました。

中学時代はサッカー部に所属。高校時代は希望の美術科でなく普通科に進み、少し学校に馴染めない時期もありました。

1992年、武蔵野美術大学視覚伝達デザイン科に入学。

第五福竜丸関連で影響を受けたベン・シャーン風の作品を描くと共に、フンデルトヴァッサーやアウトサイダーアートなどにも影響を受けました。

1995年、大学4年の時、第6回グラフィックアート「3.3m(ひとつぼ)展」でグランプリ、第63回毎日広告デザイン賞で優秀賞(同じく武蔵野美術大学出身の平林勇との共作)を受賞。

1996年、武蔵野美術大学を卒業。
就職はせず、画家として活動していくことを決意します。
この年、代表作「飛べなくなった人」を発表。

飛べなくなった

1999年から2003年まで、雑誌「Sports Graphic Number」の挿絵を担当した以外に、毎年のように数々の展覧会やグループ展に出品。

2005年、31歳の時、踏切事故で亡くなります。

約10年の活動期間で、200点程の作品を残しました。

彼の作品は、2006年、NHKの「新日曜美術館」で取り上げられたことで一気に脚光を浴び、その後、多くの展覧会が開催されています。

現在、東京国立近代美術館のMOMATコレクション展で、「無題」という作品が5月21日まで展示中です。

石田徹也の作品の特徴って?

石田徹也は子供の頃から、ずっと社会問題に関心を持っていました。そのことは、彼が作品を制作する上で大きな
影響を与えました。

彼が大学4年生だった1995年、阪神大震災と地下鉄サリン事件という大きな災害・事件が発生しました。

そのような社会に閉塞感を感じながらも、石田徹也はただ悲観的になるのではなく、もの悲しさの中にもユーモアを感じる作品を生み出していきます。

石田徹也の作品に登場する男性は、もともとは見た目も中身も彼の自画像だったのですが、作品を描いていく内に中身のほうは労働者や日本人へと広がりを見せていきます。

工事現場や警備員、工場などで短期派遣をしながら絵を描いていた石田徹也。実際に体験することにより、人々の痛みなどを作品により深く投影することができるようになったのでしょう。

晩年の作品にはユーモアはあまり感じられず、癒しや再生などのテーマが多く描かれるようになっていきます。

個人的な石田徹也作品との関わり

最初に石田徹也の画集を見たのは、青山ブックセンターなどの本屋だったと思います。

ユーモラスなのにどこかさびしさを感じる絵。フラットで、画面全体に絵がびっしり描きこまれた、正確の几帳面さを感じさせる作風だと思いました。

実際の絵を見たのは、平塚市美術館で東日本大震災の直後に開催された、「画家たちの二十歳の原点」という展覧会でのことでした。

この展覧会の作家の中で一番若手だったのに、すでに亡くなっているということに悲しみを覚えました。でも、すでに20才の時点で作風が確立しているというのはすごい。

時代や作風は違いますが、同じ展覧会に展示されていた村山塊多や関根正二などの画家との類似性も少し感じました。作品や社会に対する熱量、感受性などの部分で。

ベン・シャーンの作品も2011年、神奈川県立近代美術館葉山館で見たのですが、第五福竜丸の所属する焼津市に住んでいたということは、かなり子供心にも影響があったのだと思います。

石田徹也の作品集について

今回、この文章を書くにあたり、図書館から「石田徹也全作品集」と「石田徹也ノート」の2冊の本を借りてきました。

「石田徹也全作品集」には「3.3m展」の展示プランや日本語と英語が併記された解説などが掲載されています。

「石田徹也ノート」には、実際の絵とその絵の元になったメモがセットになって掲載されているので、どういう風に作品が作られていったのかを知ることができます。

発売日は決まっていないのですが、「石田徹也ノート」は中国で中国語版が発売されることが決まったそうです。

中国の人がどのようにこの作品集を受け取るのか、ちょっと興味があります。

草野マサムネ~どこか宇宙的な世界観を感じる歌詞の魅力

草野

武蔵野美術大学出身者を取り上げるシリーズ第3弾は、草野マサムネについてご紹介します。

草野マサムネってどんな人だろう?

1967年、福岡県福岡市出身。

1986年、東京造形大学に入学し、田村明浩に出会う。東京造形大学を中退し、翌年、武蔵野美術大学造形学部基礎デザイン学科に入学。

田村明浩の静岡時代の友人で文化服装学院在学中の三輪テツヤと文化服装学院でドラムをたたいていた崎山龍男と共に、1987年、バンド・スピッツを結成。

1991年、シングル「ヒバリのこころ」、デビューアルバム「スピッツ」を同時リリース。バンドメンバーが登場しない「スピッツ」のジャケットは、その時代にはかなり画期的なデザインでした。

同年、武蔵野美術大学造形学部基礎デザイン学科を卒業。

4枚目のアルバム「Crispy!」でポップ路線に転じたことで、「君が思い出になる前に」がオリコン週間ランキングのシングル・ランキング部門で33位にチャートイン。

5枚目のアルバム「空の飛び方」は、オリコン初登場14位。その中に収められている、シナリオを読んで2~3日で作った「空も飛べるはず」は、のちに違うドラマ「白線流し」のテーマソングに選ばれます。

6枚目のアルバム「ハチミツ」には、大ヒット曲「ロビンソン」や「涙がキラリ☆」などが収められています。

テレビ番組「あいのり」の主題歌だった2004年発売の「スターゲイザー」で、オリコン1位を獲得。

2006年、映画「ハチミツとクローバー」の主題歌「魔法のコトバ」を発売。

今年、結成30年。シングル41枚、アルバム15枚を誇るバンドです。

スピッツの多くの楽曲の作詞・作曲を行っている他、PUFFYの「愛のしるし」など他アーティストへの楽曲提供、ソロでの歌唱活動も行っています。

スピッツ(草野マサムネ作品)の特徴って?

最初聞いた時は、歌詞が詩的というのか、あまり日本のバンドにないタイプのバンドだという印象でした。

CDジャケットもメンバーがアート系の学校出身だからかおしゃれな印象で、センスが良くて、独自性を持っているな、と思っていました。

この後で触れる石田徹也の「飛べなくなった人」って、大学も一緒だし、もしかしたら「空も飛べるはず」を意識しているのかな?と勝手に思ってしまいました。

スピッツの本「旅の途中」には、「ロビンソン」のことを地味な曲と思っていたが大ヒットして驚いた、ということが書かれていたのですが、曲のイントロが裏(?)
から入る感じで、個人的にはかなりつぼでした。

北川悦吏子著「愛について」という対談集には、デザインを勉強していく内に、クライアントのための仕事というのは厳しい世界だと感じるようになったと書かれています。

感受性や繊細さ、オリジナリティを活かせるバンドは、草野マサムネにとってぴったりの芸術活動の方法だったのでしょう。

個人的なスピッツ(草野マサムネ作品)との関わり

最初の出会いは、「白線流し」のテーマソング「空も飛べるはず」だったか「ロビンソン」だったか?

その頃、自宅から最寄りの駅まで車で通勤していたのですが、車の中でスピッツのCDをかけながらカラオケ状態で歌う、というのがストレス解消になっていました。(もちろん、窓は閉めて)

スピッツ

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会社の2次会でカラオケボックスに行った時は、その成果を発表(?)するため、「ロビンソン」が十八番になっていました。

ファーストアルバムからベストアルバム「RECYCLE Greatest Hits of SPITZ」までは、すべて集めたと思います。海外旅行が好きなので、テレビ番組「あいのり」でもテーマソングを聴いていました。

コンサートにどうしても行きたくなって、神奈川県民ホールのコンサートにダフ屋(!)経由のチケットで入ったら、関係者席だったので盛り上がりに欠け、不完全燃焼になったことを覚えています。

そういえば、東日本大震災後に「CYCLE HIT1991-1997Spitz Complete Single Collection」を買ってしばらく聴いていたことを思い出しました。何か癒されたい気分だったのかもしれません。

メンバーが同い年ということもあり、バンドが30年続くってすごいな、と単純に尊敬しています。

大竹伸朗~一見がらくたと思われるものに価値を見出す

大竹

武蔵野美術大学出身者を取り上げるシリーズ第2弾。

今回は、美術家・大竹伸朗についてご紹介します。

大竹伸朗ってどんな人だろう?

大竹伸朗は1955(昭和30)年、東京出身。

1974年、武蔵野美術大学油絵科入学後すぐに休学。北海道・別海の牧場に住み込み、約1年間酪農作業・穴掘り作業などに携わった後、大学に復学。

1977年には、再び武蔵野美術大学を休学し、イギリスに滞在。ロンドンでアルバイトをしながら、創作活動をします。

1978年、武蔵野美術大学に復学し、1980年卒業。ノイズバンド「JUKE/19」のメンバーとして、自主製作のアルバムを発表。

1982年、初個展開催。

1980年代後半から、仕事場を妻の出身地である愛媛県宇和島市に移し、創作活動を行います。

1993年、絵本「ジャリおじさん」を出版。絵本だけでなく、多くの画集やエッセイ集も出しています。

2006年、東京都現代美術館で個展「大竹伸朗 全景 1955-2006」を開催。

2009年、翌年の瀬戸内国際芸術祭に向け、直島に銭湯「I ♡ 湯」をオープン。直島には、家プロジェクトの「はいしゃ」などの作品も常設展示されています。

2010年「光州ビエンナーレ」出品、2012年「ドクメンタ」出品、韓国での個展、2013年「ヴェネツィア・ビエンナーレ」出品など、海外でも活躍。

2013年には、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館と高松市美術館で個展を同時期に開催。

2014年にロンドン、2016年にはシンガポールで個展を行っています。

大竹伸朗の作品の特徴って?

こういう作風と一口に言えないところが、大竹伸朗作品の特徴とも言えるかもしれません。

古紙やオブジェ、旅先での風景や人々との関わりなど、何かに創作意欲を刺激されて作品を生み出すことが多いアーティストです。

大竹伸朗が創作意欲を刺激されるのは、ざらっとした感触のあるもの、どちらかと言えば一般の人がいらないと思ったり、妖しげだと感じたりするもの。

宇和島駅のネオンライトや宇和島の造船所で制作した作品など地域密着型の活動も多く、その活動は、絵・オブジェ・音楽・絵本・エッセイ集など多岐に渡ります。

スクラップブックは40年前から続けている、ライフワークとも言える作品群です。

個人的な大竹伸朗作品との関わり

おそらく本屋の美術書コーナーで画集を見たのがはじめてだと思います。渋谷の古本屋で買った「カスバの男」を読んで、モロッコや北アフリカに少し興味を持っただけでなく、何かかっこ良いと思いました。

カスバの男

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その後、2002年か2003年に参加した「GEISAI」の会場のNADiffブースで、額入りのリトグラフを購入しました。ピンク色を中心として、水彩のように様々な色が混じり合ったとても色づかいがきれいな作品でした。

はじめて展示されている作品を見たのは、2006年、東京都現代美術館の全館で開催された個展の時です。入ってすぐの場所に展示されていたスクラップブック群は圧巻でした。

確か、会場のコメントには「翌日どういうふうに変わっているのか楽しみだから、寝る前に必ずスクラップブックに色を塗る」と書かれていたような気が。(10年以上前の記憶なので、間違いかも)

屋上に宇和島駅のネオンライトが展示されていたり、屋内にはバンドの音楽を聴くことのできるドーム状の場所があったり、現代アートというと難解なイメージですが、ただ楽しめばいいんじゃん、という感じのする展示でした。

その次に作品を見たのは、平塚市美術館で開催された、「画家たちの二十歳の原点」という展覧会です。

ここには、北海道から帰った直後に描かれた、部屋の壁に立てかけたレコードジャケットの絵2枚が展示されていました。

個展の際に見た作品のイメージと異なりシンプルでしたが、混色された白壁など、細部へのこだわりが見られる作品でした。

まだ行ったことがないので、直島の「I ♡ 湯」はいつか体験してみたいなと思っています。

荒川修作~「死なないために」を作品のテーマとした建築家

荒川

武蔵野美術大学出身者を取り上げるシリーズ第1弾は、建築家の荒川修作についてご紹介します。

 

武蔵野美術大学

荒川修作ってどんな人だったの?

荒川修作は1936(昭和11)年、愛知県名古屋市出身。

5才の時、隣のお医者さんの手伝いをするようになり、その奥さんから医者になるにはデッサン力が必要と言われ、デッサンを学ぶようになります。

15才の時、肺結核と誤診された頃から、宿命反転はどうすればできるのか考えるようになります。

17才の時、マルセル・デュシャンのもとに手紙を何通も送りましたが、返事はありませんでした。

愛知県立旭丘高等学校美術科出身。肺結核と誤診されたため休学しました。

武蔵野美術学校(今の武蔵野美術大学)に入学しますが、3週間も通わず中退。

1958年、読売アンデパンダン展に出品。そこで知り合った瀧口修造に、マルセル・デュシャンの連絡先を教えてもらいます。

1961年渡米。マルセル・デュシャンをはじめとした、多数のアーティストと知り合います。

1962年、生涯のパートナー・マドリン・ギンズと出会い、翌年から2人で「意味のメカニズム」というプロジェクトを開始。

1970年、ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。1972年、ドイツでの巡回展にて科学者・ハイゼンベルクに認められ、
マドリン・ギンズと共にベルリン自由大学に招待されます。

1994年、岡山県の奈義町現代美術館に、〈遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体〉を制作。1995年には、岐阜県・養老町にテーマパーク・養老天命反転地が完成。

1997年、グッゲンハイム美術館で日本人初の回顧展を開催しました。

2005年、三鷹天命反転住宅を販売。2008年には、ニューヨークにバイオスクリーブ・ハウスを完成させます。

2010年、ニューヨークで没。没後、武蔵野美術大学では
「Who is ARAKAWA ?」というシンポジウムが開催されました。

荒川修作の作品の特徴って?

荒川修作は「建築家・コーデノロジスト」という肩書を持っています。コーデノロジストというのは、芸術・科学・哲学を統合する人のことを指します。

建築家というと、通常、建物を設計・建築する人を意味します。しかし、荒川修作が考えていた「建築家」とは、人間の身体を建築し直す施設を造る人のことを指していました。

人間は精神や心というもので、多くの自分の可能性を閉じています。しかし、コントロールがきかない状況で、ヘレン・ケラーのように自分の身体を動かすことで、意識を自分の外に持っていくことができると考えていました。

自分の造った施設を体験することで、呼吸・重力などを体験者が作り出すことができるようになり、それらをコントロールすることで永遠に生き続けられる可能性がある、と荒川修作は考えたのです。

荒川修作の作品について

荒川修作の代表作は、日本に多く残されています。

インタビューや講演の中で、日本も欧米も悲観主義ではあるのですが、欧米の場合、意識的なのに対し、日本の場合、無意識にそうなっている、と語っています。

日本の場合、欧米と違い、無思想・無体系であるので、実際に体験することで変革が起きやすいのではないかと荒川修作は考えました。そのため、日本にはじめに建築物を造りました。

奈義町現代美術館にある〈遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体〉は、本当は円筒状の施設を立てて展示する予定だったようです。しかし、荒川修作が横にすることを提案しました。

遍在の場

展示室「太陽」という別名の通り、少し傾いた建物の南側からは太陽の光が差し込み、対になった龍安寺が壁面に展示されています。

不安定な内部で、龍安寺の中に入るという不思議な体験をすることのできる施設です。

養老天命反転地は養老公園内の施設で、すり鉢状になった
屋外のテーマパークです。

1度名古屋に行った時、立ち寄ろうと思ったことがあるのですが、雨のため断念しました。開園直後にけが人も出たため、ヘルメットやスニーカーの貸し出しも行っているようです。

三鷹天命反転住宅はカラフルな丸や四角の建物が積み重なった9つの住宅の集合体です。

養老天命反転地や三鷹天命反転住宅に共通するのは、ふだん使わない身体感覚を使うことで、わくわく感や生きる楽しさを呼び覚ますことなのだと思います。

普通、建物はまっすぐで、便利で、バリアフリーがいいと思われていますが、立って歩くだけでなく、はって進んだり、自分で工夫して暮らしたりすることで、より生命力を高めることができるのではないかと感じました。

1998年の講演では、築地魚市場の豊洲移転やアメリカ人が沖縄に基地を残すのはお金が欲しいだけ、など今日的な問題にも触れていました。

東京にパスポートが必要な小国家を作り、日本人の意識を変えたい、とも語っていた荒川修作。そんな彼の建築を、いつか体験してみたいです。